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米大統領選と格差問題

 今秋アメリカ大統領選が行われる。3月初旬のスーパーチューズデーを皮切りに本格的な選挙戦を迎える。共和党はトランプ氏の再選を狙い、民主党は大勢の候補者がひしめいて先行きは見通せない状況だ。トランプ大統領は就任以来、アメリカ第一主義を強力に推し進めてきた。対する民主党もポピュリズム左派と称されるサンダース氏など多くの候補者が富裕税導入など大衆受けを狙った政策を前面に打ち出し対抗する。こうした「アメリカ第一主義」はアメリカの国際的地位を著しく低下させてきた。アメリカの国際政治学者で知日派としても知られるジョセフ・ナイ氏は、経済力や軍事力などハード面だけでなく、アメリカの魅力であった民主主義や人権、文化などソフトパワーが損なわれていると指摘する。そして「傲慢」「他者の意見に無配慮」「狭い国益観念」などがソフトパワーを損なう要因だと憂慮する。だが大統領選の序盤を見ると、減税や関税措置などで岩盤支持層に配慮するトランプ氏と、大衆受けを狙う民主党候補の間で、スキャンダル追及やポピュリズム政策の競い合いが続く。アメリカが世界のリーダー国として保持してきた自由と人権、民主政、開かれた自由貿易などの理念は後ろに追いやられた格好だ。
 冷戦終結後の30年間、ヒト、モノ、カネの自由な移動によるグローバリズムによって経済の発展が図られてきた。一方、中下層の所得階層が経済成長から取り残された結果、多くの国で深刻な格差社会が生み出されて社会の分断を招く現象が起こった。低所得層の不満はより低賃金の移民や難民などに向かう。社会への不満、将来への不安を抱く層によって、多文化の共生や寛容の理念などが否定され、自国第一、反移民などの風潮が蔓延した。アメリカに限らず欧州各国にも拡がった格差社会は、多くの国でナショナリズムや保護主義を訴えるポピュリズム政党が伸長し政治の不安定化を招いた。安定した政治が行われているとされる日本でも格差や分断の問題が深刻化してきたと指摘する著作やリポートが近年目立つ。また財政赤字を抱えるにも拘わらず給付など巨額な財政支出を行うという一種のポピュリズム政治で格差問題が先送りされているとも言われる。
 格差社会の対応策として、各国が協調よりも自己主張を強める傾向に対し、第一次や第二次世界大戦前と酷似するとする指摘が最近多い。各国の保護主義や閉鎖的なブロック化の経済政策が二つの大戦前の共通した経済状況だ。格差解決は各国が壁を築いたりポピュリズム政策を選択することで解決されるものではないことは二度の大戦の教訓だ、即効薬は期待せず地道な社会改革の積み重ねが大切なのではないか。そして地球温暖化や核軍縮などグローバル課題にも敢然と取り組むべき時ではないだろうか。アメリカ大統領選は、再び世界から信頼され尊敬される誇り高きアメリカを取り戻す、未来に一筋の光をもたらすものであって欲しいものである。       


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国会改革の必要性

 「桜国会」と呼ばれた臨時国会が閉幕した。日米貿易協定の承認などが主なテーマの国会だったはずだが、政治とカネをめぐる2閣僚の辞任や、大学入試の英語民間試験の導入見送りに続いて「桜を見る会」が焦点になり「桜国会」などと呼ばれた。招待客の基準が不明確で名簿も破棄したという節度を欠いた政府の対応は批判されて当然だ。政府側は野党の追及に納得の行く答弁が出来ず時間切れで何とか国会を乗り切ったという印象だ。
 国民目線からすると政権のいい加減さを質して欲しいという感情がある一方、スキャンダル追及重視に明け暮れる国会はこれで良いのだろうか、国の在り方や直面する課題の議論がお座なりになっているのではないか、という感想を抱いた国会だった。欧米の議会には見られない日本の議会運営の慣例がこうした事態をもたらしている要因とされる。読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏は国会審議の形骸化の現状は議院内閣制の危機で国会改革の必要性を強調する(12月7日読売新聞)。そして悪しき慣例の一つの「与党の事前審査制」の廃止を主張する。政府提出の法案は与党によって事前に審査・承認され政府は与党の党議決定を経て閣議決定する。この段階で与党の法案審議は終わっており、後は法案をいかに通過させるかが残るだけになる。一方、野党にとっては国会こそが活躍の舞台だ。ところが国会論議で修正などを迫っても党議決定した与党が応じることはほとんどない。したがって野党が存在を際立たせるにはスキャンダル追及こそが格好の材料となる。こうした実態を打破し国会審議の活性化を図るため、平成の初期の頃から民間の有識者で作る「民間政治臨調」などから事前審査・承認慣行の廃止が提言されてきたが今もって実現していない。国会の在り方が問われるスキャンダル応酬の「桜国会」ではなかったか。
 もう一つは「会期不継続原則」だ。日本の国会は常会や臨時会が設定され閉会中審査の手続きをとったものを除き、会期不継続の原則により審議未了の案件は継続せず廃案になる。これが国会運営をスケジュール重視の駆け引きにしている要因だ。これまでは会期末などで野党が審議拒否や不信任案などで会期不継続の原則を抵抗手段に使うことが常態化していたが、今回は「桜を見る会」の追及を回避するため与党側が時間切れを狙った印象だ。いずれにしても「会期不継続の原則」が国民にはわかりにくい国対政治の温床になってきた。会期制の抜本改革は憲法改正が必要なため通常国会の延長などを通じて改善すべきと識者などから指摘されて久しい。こうした点に限らず、予算委員会や党首討論の在り方など「桜国会」は多くの改革の必要性を感じさせる国会だった。国会は機械的な議案の通過機関でなく「言論の府」である。与野党は国会審議の活性化、透明性など国会改革の課題について真剣に取り組んで欲しいものである。

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憲法論議

 安倍総理は内閣改造と党役員人事を行い「憲法改正に向けた議論を力強く推進する」と強調した。衆院の憲法調査会の与野党のメンバーも改憲を何度も実行しているドイツなどへ海外視察に出かけたと報じられており国会での改憲論議が注目される。これまで改憲派は現在の憲法は押しつけ憲法であり、自主憲法制定が必要だとしてきた。対する護憲派は世界に先駆けた誇るべき憲法を守るとして、長らく国民の分断が続いてきた。9条以外の参院改革など統治機構、私学助成など教育改革、緊急事態条項などの議論を含めて対立を克服する方向に議論が進むことは可能だろうか。
 ところで今年、憲法関係で新聞や総合雑誌の書評にも取り上げられ話題になった2冊の本がある。1冊は加藤典洋氏の「9条入門」(創元社)だ。刊行直後に著者が亡くなられこの本が絶筆となった。日本の終戦処理に関し11か国で構成されていた極東委員会は天皇を免罪することに反対だったが、占領軍の最高責任者マッカーサー元帥は天皇を利用して占領統治を出来るだけ有利に進めようと考えていた。憲法9条の戦争放棄条項も、昭和天皇の免罪を各国に認めさせるために作られたものとする。また大統領選出馬を狙っていたマッカーサーのアメリカ本国との駆け引きなど憲法制定の過程が分析される。そして成立過程から世界に先駆け国連による「集団安全保障体制」に主権の一部を委ねるのが9条の本旨であったことが説明される。その後、朝鮮戦争や東西冷戦で集団安全保障体制は実現されなかった結果、護憲派と改憲派の対立が続くようになったが集団安全保障を志向する大切さが主張される。
 もう1冊は篠田英朗氏の「憲法学の病」(新潮新書)だ。日本国憲法には「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原理で構成されているという見解や、平和主義についても国際法を凌駕して唯一無二の世界最先端の規範だという見解などを批判する。日本の憲法学の主流をなしてきた宮沢俊義、芦部信喜氏等のこうした憲法解釈に異議を唱える。日本国憲法は1928年の不戦条約、1945年の国連憲章などの国際法規を前提に作られたもので国際法規範を遵守する意図を表現していると考えるのが妥当とする。
 当然、2冊の本の評価については異論もあるが、、憲法について従来の通説とは異なる見解に触れることであらためて考えさせてくれる書である。憲法改正が現実の政治課題になりつつあるいま、いわゆる「押しつけ論」の実際の経過、いわゆる「世界最先端憲法」論と国際法との関連などを点検しながら、改憲派と護憲派の対立を止揚して行けるような議論の質が高まることを期待したいものである。


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参院選を終えて

参院選が終わった。注目された与野党の議席数は自民、公明両党が安定多数を維持する結果に終わった。選挙中、社会保障政策など国政の幅広い分野にわたって論戦が繰り広げられた。だが参院は何のために存在するのか、衆院と異なるどんな役割が期待されているのか、そのためにどう改革するのか等々、問われている本質的な問題を訴える政党や候補者が見当たらなかったことは残念だった。昨年もこの欄で私見を述べたが、こうした点はこれまで繰り返し指摘されてきた。例えば「参院、真の改革へ待ったなし」で中北浩爾一橋大教授は参院が自己改革を怠れば有権者に見放される日は遠くない、と警告する(7/14信毎)。昨年の国会で、今回の選挙の合憲性を確保するため鳥取・島根、徳島・高知を合区するなどの一票格差是正のための公選法改正が行われた。この改正は定数の6増に加え特定枠導入など理念なき小手先対応として世の非難を浴びた。さらに先の国会では議員歳費を返上出来る法案を可決した。今後3年間に限り議員一人月額7万7千円を返納できる、これを定数増に伴う経費増に充当しようとするものだ。返納するかどうかは議員の自主的判断に委ねるという。その場凌ぎのあきれるばかりの対応である。国会議員の定数、選挙制度の仕組みは民主主義下の議会制度の基本中の基本だ。参院が二院制の趣旨に基づく改革を怠ってきたこれまでのツケが、理念なき一時凌ぎの法案に立ち至ったことは明らかだ。90年代の政治改革の際も、参院は他人事のように「我、関せず」で過ごし衆院の改革だけで終わった。だが一極集中傾向の人口動態からして今後もいくつかの合区が迫られる事態が想定され、現行の都道府県代表制の維持は困難になることが想定される。参院は制度発足当初から、地域の声を代表する都道府県単位の選挙区制度で「地方の府」として、合わせて全国単位の選挙制度で有識者や職能代表を選ぶ多様な民意を反映する「良識の府」としての機能が期待された。衆院のカーボンコピーの参院や「政局の府」の参院は不要だ。地方の府、良識の府として本来の機能を発揮するところに参院の存在価値がある。
 「地方の府」として参院を位置づけ、公職選挙法を改正し都道府県から議員を選出する選挙制度を実現することは憲法理念に反しない、とする見解は前出の中北論文はじめ多くの識者から論じられてきた。例えば自治省出身で福井県知事になった西川一誠氏は憲法制定時のGHQとのやり取りの立法経過、そして昭和58年、平成26年、28年の最高裁大法廷判決を引用し、憲法改正がなくも法律改正で都道府県代表制が可能と結論づけている(中央公論2018・5月号)。参院は、こうした見解も参考に自らの改革に躊躇なく取り組むべきである。今回の選挙は安倍政権の信任や消費増税の可否が問われた。だが参院改革を議論せず先送りが続くと、有権者から参院不要論、世界の多くの国で採用している一院制論が沸き起こるかも知れないことを心すべきと思われる。

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欧米政治の異変に思う

 欧州議会選挙(EU)でEU支持派が過半数を維持したがポピュリズム勢力が勢いを増す一方、これまでの政権を担ってきた政党が軒並み試練に立たされ欧州政治の異変は収まりそうにない。イギリスでは長年にわたって政権を競い合ってきた保守党、労働党の二大政党がEU離脱を掲げる「ブレグジット党」に押され支持率トップの座を奪われている。ドイツではこれも長年政権を競い合ったきたCDU(キリスト教民主同盟)とSPD(社会民主党)に対し反移民・反EUの「ドイツのための選択肢(AID)」の台頭が著しい。フランスではルペン党首率いる極右の「国民連合」がマクロン氏の与党に拮抗している。イタリアでも連立政権を樹立した極右と極左の「五つ星運動」がトップの座を占めた。スペインなど他の欧州諸国でも同様な現象が起っており、これまで長年政権を担ったきた既成政党は困難な局面に遭遇していることが今度の選挙を通じて鮮明になった。そして大統領選の前哨戦が始まっているアメリカでもトランプ政権のアメリカンファースト政策や大型減税など大衆迎合的政策が進行する。対する民主党の大統領選の候補者選びはMMT理論(財政赤字容認の金融理論)などを叫び、共和党以上のポピュリズム的傾向を強めているのが現状だ。
 こうした欧米における左右両派によるポピュリズムの高まりは国際社会の大きな不安定要因となりつつある。かつて国際協調を無視し帝国主義の剥き出しの欲望が対立し閉鎖的なブロック経済政策が採られ、取返しのつかない大戦の引き金になった時代状況と重なる。各国の国内世論の対立と分断、そしてそれを克服し切れない政治の混乱は先行きに大きな不安を抱かせ、相互の理解、寛容を前提とした国際政治システムは困難に遭遇している。
 さて日本は世界でもっとも政治の安定した国の一つだとされるが言うまでもなく多くの課題も抱えている。日本の近代政治システムは明治初期の板垣退助等の民選議院設立建白書以来、絶えず欧米を範としながら議会制度を確立してきた。平成の政治改革でも欧米型の「政権交代可能な二大政党制」を目指す制度設計が行われてきた。しかしヨーロッパにおける二大政党制は揺らぎ、範とすべき政治システムの存在は危うくなっているのが現状だ。自民党一強と野党の混迷が続く日本政治だが、責任ある政策を提起し絶えざる改革に取り組まなければ、ポピュリズムの台頭を招き、たちまちにして政治の不安定化を招くことを欧米の政治状況は教えている。有権者がわがままを言ったり、無理なサービスを政治に求めたりすることが繰り返されれば民主政治は成り立たない。また憎悪や熱狂で課題は解決しないことは歴史の教訓だ。有権者、政治家双方がそのことを自覚して日本の政党政治の健全な発展を目指して欲しいものである。揺らぐ欧米政治を他山の石として自由と民主主義を基調とした政治的価値観や平和と人権を大切にする国として、国際社会において信頼され尊敬される国として存在感を示して行きたいものである。

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平和維持への問いかけ

 国際政治学者の三浦瑠麗さんが「21世紀の戦争と平和」(新潮社)と題する本を刊行した。新聞各紙の書評欄にも数紙で紹介され話題を呼んでいる。副題には「徴兵制はなぜ再び必要とされているのか」と挑発的なタイトルが付く。だが数年前に「シビリアンの戦争」を出版しデモクラシーが攻撃的になることを指摘した三浦氏は単純に徴兵制の復活を主張しているわけではない。むしろ兵器の高度化が進んだ現在、徴兵制の軍隊は実戦に対応出来ずお荷物になるという認識を持つ。憲法上認められないことも百も承知だ。だが三浦氏は、戦争を抑止し平和を確立するためには、徴兵制によって国民が実際の戦争と犠牲を体感できる仕組みを議論すべきではないか、と問題提起する。 そもそも民主主義社会が高度化すると戦争による犠牲「血のコスト」は少数の職業軍人だけが負担するようになる。すると政治家や一般国民は戦争によってもたらされる犠牲やコストなどを考慮せず、戦争に抑制的な軍の意向を押し切り大義名分を掲げて安易に戦争を選択してしまう。日本の太平洋戦争の過程を見ても、自らは血のコストを負うつもりのない一般国民が好戦的になり声高に邦人保護を訴えていたことが軍部暴走を支えていた。国民が平等に徴兵されるようになったのは最後の2年間ほどで徴兵制が戦争を拡大するというものではなかった、と振り返る。またアメリカのイラク戦争をはじめ近年の戦争や紛争は、こうした「シビリアンの戦争」が多いと指摘する。軍が武力行使に抑制的であるが政治家や一般市民が軍を抑えて不必要な戦争を選択するケースが多いとする。国連による平和維持の仕組みが十分に機能せず、大国アメリカによる抑止力も揺らいでいる情勢の中で、平和を維持して行くためには国民が戦争を自身の問題として捉える必要があるのではないか、そこに確かなシビリアンコントロールと戦争に対する抑制的な考え方が育まれるのではないかと、提起する。2017年のフランス大統領選で当選したマクロン氏は「短期間の兵役義務化」の公約を掲げて当選した。スウェーデンでは2018年平時の徴兵制を復活させている。こうした動きは軍事優先の国家を目指すものではなく、民主主義を強化し戦争を抑止する取り組みだと分析する。
 そこで著者は、広い年齢層の平等な徴兵制の検討を提案する。災害対応を想定した訓練や環境問題への対応を含めた国土管理と郷土防衛の予備役にさまざまな世代の国民を持ち回りで召集する、などを例示する。この徴兵はあくまでも国民の血のコストへの理解を深め、戦争への無責任な賛同を抑え、国家を自分たちで守り作り上げて行く感覚を養うためのものだ。近年、アメリカや欧米各国でのポピュリズム的政治勢力の進出を見ると、自国第一の国民感情に押され安易に開戦が決定されて行く危険性を感じる。「血のコスト」を論じ平和維持を問いかける本書の問いかけは重い。

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改元の年にあたって

 新元号がスタートする年を迎えた。30年前の昭和から平成へ改元された時期と国内外の状況が転機にあるという点で似通った状況にあるのではないか、と感じられる。
 1989年1月7日に平成に改元された年は歴史の曲がり角ともいうべき年であった。ベルリンの壁の崩壊と東欧諸国で相次いだ民主化は東西冷戦の終結をもたらした。中国でも100万人の民主化要求デモが起ったが人民解放軍に鎮圧されるという天安門事件が起った。
 日本国内ではリクルート事件で竹下内閣が倒れ日本政治は長く続いた55年体制の崩壊の予兆を示していた。一方、日本経済はバブルの絶頂期にあった。89年末、日経平均株価は史上最高値の38,915円を記録した。狂乱的な土地バブルが起りジャパンマネーが世界を席巻していた。だが90年1月4日の東証の大発会では全面安の展開となりバブル崩壊へと繋がる。
 こうした劇的な変化に対応するため平成の前半は「改革の時代」とも言うべき時代であった。その先陣を切ったのは政治改革であった。55年体制を打破する政治の仕組みが議論され、壮絶な権力闘争も展開された。小選挙区比例代表制が導入され55年体制の政治とは大きく様変わりする。それまでの派閥主導の政治から政党の執行部に権力の集中が進み政治主導の政治に転換が進む。野党でも自民党に対抗する二大政党への再編が繰り返されるようになり平成時代に2度非自民政権が誕生する。そして政治改革に続いて、いわゆる橋本行革と呼ばれる統治機構の改革が実行される。首相官邸の機能を強化し中央省庁再編が実行された。さらに地方分権改革や司法制度改革も取り組まれた。財政構造改革、公務員制度改革なども行われた。これらの改革は充分だったのだろうか。新時代のスタートにあたって、その評価を行いながら次の時代の課題に向けて取り組んで行くことが大切と思われる。
 改革以後の平成時代後半は根本的課題を先送りする風潮が日本社会を覆った。将来世代にツケを先送りする社会保障制度の改革、財政健全化への取り組み、経済の持続的発展の方策、統治機構改革など、時代の求めている課題は先送りされたままだ。こうした課題から逃げ回り、増税問題に蓋をして社会保障の充実を叫ぶ政治が横行する。希望的観測で有権者に美味しい話が語られる。今問われているのは国民に負担を求め説得する「政治の力量」ではないだろうか。長年、日経新聞の政治記者として活躍された清水真人さんは著書「平成デモクラシー史」(ちくま新書)で平成の政治改革を振り返って「政治家が目の色を変えて激論するのを後にも先にも見たことがない」と感想を述べられている。実際あの時代は政治家が自分の選挙区事情など顧みずに天下国家が論じられた。新元号のスタートする今年は平成のスタートと同じく宿命的な変革期を迎えているように思える。平成改革が冷戦の終結に誘引されたように、米国の覇権が揺らぎ中國の台頭が懸念され、イギリス、フランス、ドイツなどの国々の政情不安が広がる。国際社会の不安定化も平成スタートの年と何となく似た様相だ。政党や政治家には、平成改革を超える、時代に立ち向かう情熱、強い決意と心意気で「目の色を変えて」課題に取り組んで欲しいものである。

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消費増税と経済論戦への期待

 昭和初期、金解禁と経済不況の責任をめぐり民政党の浜口内閣と野党政友会の間で論戦が行われた。とりわけ1931年(昭和6年)の第59議会での前田中内閣で大蔵大臣を務めた三土忠蔵と時の大蔵大臣井上準之助の国会論戦は、今日でも語り草になっており、時折経済誌などに引用される。当時、浜口内閣は財政緊縮・消費節約が必要だとして官吏の減俸や軍事費の縮減などに取り組んでいた。これに対し三土氏は「政府の見通しの悪さが生産消費の減退、物価の下落、貿易の不振、破産の頻発、失業の続出を招いている」と追及する。また財政悪化の要因についても税収減を通じて公共団体の財政を緊縮したことが原因と指摘した。これに対し井上は「歳出を減らさずに公債を発行し借入金ををして財政緊縮を止めろ、という議論には賛同しかねる」と真正面から反論する。その後、浜口総理が東京駅で襲撃され、後を継いだ若槻内閣も倒れ、政友会犬養内閣が誕生する。大蔵大臣には高橋是清が就任し民政党政権時代の緊縮政策を大転換する。今度は野党に回った井上準之助が真正面から論戦を挑む。この間の経過は城山三郎さんの小説「男子の本懐」に生き生きと描かれている。
 さて先頃、安倍総理が来年10月からの消費税引き上げを宣言した。そして野党の多くは直ちに引き上げ反対を表明した。国民目線から見れば、何故今、消費税を引き上げなければならないか、という点をもっと丁寧に分かりやすく説明して欲しい、軽減税率やポイント還元の話ばかりが前に出て、国民生活への影響は少なくしますよ、と言い訳ばかりが目立つ印象だ。今回の消費税率引き上げで国の財政が好転しプライマリーバランスの黒字化は達成されるのか、増え続ける社会保障費への対応はこれで充分なのか、将来ともさらに引き上げは必要ないのか、等々基本的な説明が求められているのではないだろうか。一方、野党の引き上げ反対論も説明が求められる。国民請けを狙った単なる反対では無責任の感はまぬがれない。かつて緊縮政策を進め国民に節約を訴えた民政党は金解禁直後の昭和5年の総選挙で圧勝する。国民は決して必要な負担を否定するわけではないことの歴史の教訓だ。世界中にポピュリズムが吹き荒れる中、国民の声を聴くとともに、国民を説得することも政治に課せられた大切な役割であることの自覚が大切と思われる。
 近年、日本政治において経済政策をめぐる骨太の議論が聞かれなくなった、と多くの識者が指摘する。与野党の消費増税への対応を見ると体系的な経済政策よりも小手先の国民請けを狙った手法が目につく。自民党には財政再建派や上げ潮派が存在するが、基本的には「大きな政府」路線で成長の成果を配分する路線を歩んできた。対する野党の多くは年金受給者や農業などに新たな配分を約束するなど自民党よりさらに「大きな政府」路線を掲げてきた。欧米では大きな影響力を持つ「小さな政府」路線は日本では小泉内閣の一時期に見られた程度である。消費増税後に日本はどのような道を選択して行くのであろうか。金融、財政政策や構造改革についても骨太の議論を展開して欲しい。スキャンダル追及だけでなく質の高い経済論戦こそ期待される。消費増税を前に、昭和初期に帝国議会で展開されたような経済論戦が甦ることを期待するのは無理筋だろうか。
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参院の存在を問う

 参議院の選挙制度改革をめぐって自民党などが提出した公職選挙法改正案は11日参院本会議で可決されたのに続き18日衆院でも与党側の賛成多数で可決された。ただ今回の法案はどうひいき目に見ても納得し難い内容だ。来年夏の参院選から適用しなければ、裁判で一票格差が憲法違反とされる判決が出される可能性が高い。選挙制度の改正には周知期間が必要で、それを考慮するとこの国会での結論が必要だったのだろう。法案の中身は、一票格差是正のため埼玉選挙区を2増する、比例代表に政党の定める候補者順位で当選者を決める「拘束名簿枠」を設け定数を4増する、などだ。どう見ても、その場凌ぎの小手先な対応と言わざるを得ない。とりわけ鳥取・島根、徳島・高知の合区で溢れた議員救済のため拘束名簿の特定枠を導入するなど無節操ぶりにあきれるばかりである。
 そもそも13年参院選の一票格差が「違憲状態」とする最高裁判決があって15年の公選法改正で合区を導入した。その際「19年の参院選に向け抜本的見直しを検討し必ず結論を得る」と付則に明記したのではなかったか。読売、朝日、毎日など各紙の社説は一斉批判し、野党はもちろん、自民党の衆院側からも強い懸念の声が出たのは当然だ。
 もともと参院制度は憲法制定過程から問題を孕んでいた。GHQから示された憲法原案は一院制だった。日本側の強い要望を受け、GHQも貴族院とは違って国民の選挙で選出される第二院ならば、ということで参院制度が生まれた経過がある。そして憲法43条に「両議院は全国民を代表する選挙された議員で組織する」と規定された。しかし憲法制定議会では二つの異なる国民代表機関が存在することへの懸念が何人かの議員から指摘された。時の金森憲法担当国務大臣は衆院の優先性があるから懸念には及ばないと繰り返し答弁した。
 世界で二院制を採っている国は4割弱の60カ国余りだ。第二院はイギリスでは貴族などで構成され世襲制で終身制、ドイツは任命制で州の首相などが務める。フランスは間接選挙で下院議員や県会市町村議員が投票人だ。アメリカの上院は各州から選出される。ほぼ同等の権限を持ち国民の直接選挙で選ばれる日本の参院制度の特異性が目立つ。それが日本の決められない政治の温床になったり、参院選の敗北の責任を取って何人かの総理が辞任したり政治の不安定の要因になってきたのは周知の事実だ。まさに憲法制定当時から懸念されていた課題が浮き彫りになっていると言える。しかも現状の参院は抑制と均衡の役割を果たすどころか衆院のカーボンコピーと揶揄される始末である。
 参院は果たして必要なのか、多くの国のように一院制でも良いのではないか、たとえば年金制度とか財政再建など長期課題に取り組むなど衆院とは違う権限の院にすべきではないか、などなどこれまでも様々な議論が行われてきた。参院の改革は憲法43条や59条の再可決要件などの改正を含む憲法制定時以来の大切な課題だ。会期末のドサクサに紛れて小手先の党利党略的な公選法改正で済まされる問題ではない。改革をネグレクトし平気で定数増など当座を凌ぐ国会に、行財政改革を語ったり、来年の消費増税を唱える資格はあるのだろうか?
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年配者の「君たちはどう生きるか」

 「君たちはどう生きるか」のマンガ版(芳賀翔一・マガジンハウス)が大ヒットし今も売れ続けているという。ブームが起きてかなりの日数が経つのに、いまだに多くの書店で特設コーナーを設けて売り出している。もともとの原本は1937年に吉野源三郎によって書かれ「日本少国民文庫」(新潮社)の一冊として刊行された。前年の36年には二・二六事件が起り、この年は盧溝橋事件が勃発、日中戦争の泥沼化と軍国主義へ大きく傾斜して行く年であった。そんな時代に子どもたちにしっかり生きて欲しいという願いを託して書かれた本である。
 山の手の知的エリート的な家庭の旧制中学二年生コペル君こと本田潤一と叔父さんとの対話をベースとして物語は展開される。ニュートンやナポレオンが登場し科学や歴史への見方を学び、いじめに直面したコペル君の行動と苦悩も描かれている。活字離れが進み、出版業界の不況が深刻化する中で80年前のこの本が売れるのはなぜか?作者の吉野源三郎(1899~1981)は戦後民主主義の旗手として、岩波書店の雑誌「世界」の編集長として長くその任にあたったことで知られる。この原本はその吉野の若き日の一冊である。吉野は東京師範学校附属小中学校を卒業し旧制一高、東京帝国大学経済学部へ進む。こうした吉野の経歴から「君たちはどう生きるか」のコペル君は東京山の手育ちの吉野の自伝的小説だという見方もあり、教育者や学生に愛読された作品である。現代の教育者や子を持つ親も、コペル君が上級生のイジメを目撃し仲間を見捨てる罪悪感などに現代教育の直面する課題と重なり合うものを感じたのだろうか。それとも子や孫に「未来の知識人」を期待してのことだろうか。ブームの要因としては、はっきりしない。
 しかし今回の大ヒットは、どうやら年配者にけん引されているようだ。私も数軒の本屋で「どんな人たちがお買い求めになられるか」と店員さんに訪ねてみた。「年配の方が多いです」という返答だった。マンガと同時に刊行された新装の「君たちはどう生きるか」(マガジンハウス)で前書きを執筆した池上彰も源三郎の長男吉野源太郎(元日経新聞論説委員)との対談で、子どもたちの両親やおじいさん、おばあさんが買い与えているためだと分析している。(文芸春秋18年3月号)
 戦後、吉野は「世界」を拠点に51年の「単独講和か全面講和か」60年の「安保改定」などに挑み続けるが、自身で敗北を認める結果を味わう。「君たちはどう生きるか」のヒットは、吉野と同じ敗北感を味わい戦後を生きた私たち高齢世代の思考のジレンマが要因の一つと言えるかも知れない。この本は、戦後民主主義の世代、60年安保世代、70年前後の全共闘世代等々、一度は「世界」を小脇に抱えて反戦平和を唱え、心情的に岩波文化に同調した世代の数多くの人々によって読まれているのではないか。自らを進歩的と自認しながら、今なお行き場に迷っているわれわれ高齢者のノスタルジアが本を手に取るきっかけになっているのではないか。若い世代だけでなく、年配者になっても「君たちはどう生きるか」が問われていることは確かである。
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