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対立の議論で感じたこと

 安全保障関連法案が成立した。この過程で賛成、反対双方の立場で論争が繰り返されメデイアの論調も国民世論も大きく割れた。ある程度、国民的合意がなされ、例え政権交代があっても一貫性が要求される安全保障政策が、今回もまた国民世論やマスコミ、政党間の分断の中で成立したのは残念だった。いつまでも続く55年体制の残滓も感じたが、これから冷静に安全保障政策や憲法の議論を深めたいものである。
 大切なのは国際平和への貢献策や国際社会への関わり方についての議論だと思われる。グローバル化や非国家の軍事組織による殺戮や軍事支配が進む国際社会で、多国間の国際協調が大切になっている現状で世界各国がPKO活動や人道支援、復興支援などで活動している。日本はこれからも憲法上の制約を理由に他国に任せて良いだろうか、という問題意識が必要だと思える。国際情勢を見誤り、国際連盟脱退、三国同盟締結など独善的、場当たり的外交で国際協調に欠けていたことに戦前日本の悲劇があったのではなかったか。その責任は軍部や政治家だけでなく、新聞や国民の熱狂的後押しにあったことを皆で自覚する必要があるのではないだろうか。「国際社会で名誉ある地位を占めたいと思ふ」「いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とする憲法前文の要請に応えて行く方策を真剣に検討すべきと思われる。
 また日本国憲法は集団安全保障を前提としていることは通説だ。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」そして9条の「国権の発動たる戦争、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と続く文脈は明らかに世界政府的な国連の集団安全保障の機能を前提にしている。だが国連常備軍は存在せず、加えて常任理事国の拒否権が保障されており、国連による安全保障は機能して来なかった。結果、日本の安全保障政策は国際環境の変化とイデオロギー対立の間の折り合いを付け、憲法の拡大解釈を重ねて対応してきた。また国連の安全保障機能はPKOや国連決議に基づく多国籍軍の編成という形で行われてきた。日本は抑制的で防衛主体の軍事力を保持する姿勢を基調にしつつも、こうした「国権の発動」とは異なる国連への活動に積極的に取り組むことが憲法の要請ではないだろうか。自国が攻撃されないかぎり武力を行使しない、とする姿勢は確かに平和的だ。だが同時に日本人の命は大事だけれども他の国の人の命は大事ではない、とする考え方に繋がるのではないか、とする指摘もある(植木千可子「平和のための戦争論」ちくま書房)。個別的、集団的自衛権の差異や違憲論争などの議論も大切だが、国際協調による平和活動や集団安全保障機能の強化についてさらに議論を深める必要があると思われる。
 今回の法案をめぐる議論では、安倍総理の歴史観に何となく危うさを感じる部分もあり、これからの国際社会との関わり方についての議論が深まったとは言えない。また日米同盟について他の選択肢はあるのか、中国の海洋進出や北朝鮮の核脅威などにどう対応すべきか等、イデオロギー対立を超えた国民的合意に向け抽象的ではなく具体的議論が必要と思える。それは日本がこれから国際社会とどう付き合って行くかという基本的な問題だ。多様な意見の存在は民主主義にとって歓迎すべきことだが、国際社会との関わりについては従来からの保革の対立、護憲派と改憲派の対立を超えた、ある程度の共通項を見出すことは不可能だろうか。
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