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人口減少問題

 人口減少問題が大きな課題としてクローズアップされるようになった。増田寛也氏を座長とする日本創生会議人口問題検討分科会の試算と緊急提言が具体的な課題を提起したことが問題意識を加速させた。試算では、地方から大都市圏への人口流入が続けば2040年には若年女性(20~39歳)の数が半数以下になる自治体が896(49,8%)の上り、こうした自治体の存続問題が浮上する、と指摘した。
 こうした指摘などもあり、政府は「まち・ひと・しごと創生本部」を発足させ、若い世代の就労、結婚、子育ての支援や、東京一極集中の歯止め、地域課題の解決などに取り組むという。また「輝く女性応援会議」も発足させ女性の社会進出を図るという。今国会には地域再生法案も提出された。こうした取り組みに対し、早速、従来型の補助金のばら撒きへの懸念などが各界から出されている。また人口減少地域に投資する企業は限られ、地域再生はそう簡単ではない、などと多くの課題が指摘されている。こうした指摘はそのとおりだと思うが、果たして人口問題に対する危機意識、問題意識が政治家をはじめ国民に共有されているだろうか、ということこそが心配される。人口問題は、相変わらず当面利益、目先課題に明け暮れる政治、行政の体質が問われているのではないか。自分の任期中は目先課題に取り組めば、根本問題は先送り出来るとしてきた中央・地方の長や議員など政治家、自分の在職中は乗り切れるとして抜本対策を怠ってきた官僚・役人、税制や社会保障問題だけでなく、地域課題についても将来よりも当面の自分の利害を優先して選択してきた国民。こうした政治家も役人も国民も総ぐるみの場当たり体質によって、根本的課題は常に先送りされてきたのではなかったか。結果、他国に類例を見ない少子高齢化と膨大な財政赤字を招いただけでなく、人口問題という将来の国・地方の存立すら危うい事態を招いてしまったのではなかったか。
 今や人口問題から逃げることは許されない。国民の自覚とともに、中央・地方の政治家の水準や資質の程度が問われる課題と思える。
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内閣改造感想

 今は在京生活の高校時代の友人3人が先日、久しぶりに故郷に来た。ゴルフを楽しんだ後、新幹線の最終まで夕食を共にした。友人たちはいずれも民間企業で海外勤務などを経験し、役員にまで昇りつめ数年前に退任した共通の経歴を持つ。昔の話などの話題が一巡した後、内閣改造直後だったことから、話題は自然にそちらに転じた。「大臣が1~2年で交代するけれど思い切った仕事など出来るわけないね」「経験から言っても自分の思いを実現出来るには3~4年はかかるよ」などと改造には疑問の声ばかりが行き交った。
 第2次安倍改造内閣がスタートし世論調査では高い支持率を回復した。総裁経験者の谷垣氏を幹事長に据えた党役員人事、石破氏の処遇や女性閣僚の起用など新鮮さと安定感が評価されたとされる。この体制で直面する難題に対処し着実に政策が遂行されて行けば、国民にとって歓迎すべきことだ。しかし、そもそも改造の目的は何か、改造は何故必要だったのか、という疑問に答えて欲しいと思うのも当然だと思われる。内閣改造は派閥バランスを取るためだったり、入閣待望組の処遇のために行われてきた歴史がある。果たして大臣は、全国の経済、社会状況を把握し、国際情勢にも通じ、短い任期で仕事が出来るだろうか。確かに国会議員としてその部門の活動を重ね、専門家として精通していることは否定しない。だが、さらに政策を磨いたり、内外の人間関係を築き組織を把握したりするためには、ある程度、時間を必要とするのも確かだ。友人たちが指摘したように改造が定例化している政治構造の見直しも必要ではないだろうか。
 その最大の眼目は政党の党首の選び方だ。総裁任期が総理の任期と一致しないのはどう見てもおかしい。小選挙区比例代表制は政党を選択し、総理を選ぶ選挙制度だ。各党は選挙にあたって政策と総理候補を明確にして選挙に臨むべきことは言うまでもない。国民が選んだ総理を、政党が党大会で当たり前のように首のすげ替えを行う今の仕組みは、国民が納得できるものではない。政党は国民に選ばれる総理の重みに配慮し、党の総裁や代表選びの規則を検討すべきと思われる。制度に見合う改革が求められていることを自覚し対応することは政党の責務だ。今回の改造は、安部総理が次期総裁選の布石を打った面もあるとされる。選ばれた総理は党内統治のための内閣改造には慎重さが求められる。
 友人たちとの会話を通じての感想である。
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危うい体質

 1931年(昭和6年)9月18日、中国奉天郊外の柳条湖で関東軍が南満州鉄道を爆破。1945年(昭和20年)まで続く、いわゆる15年戦争の口火となった。関東軍はその後わずか5ケ月で満州全土を占領。中国国内で抗日運動が起こり、アメリカ等国際社会との対立も深まって行く。この事件を報道した日本の朝日、東京日日(毎日)などの新聞は、日本陸軍の計画的行動を隠し、特派員報告として「支那軍が満鉄線を爆破、我が軍はこれに応戦」などと一斉に報じた。それまで軍の満蒙問題には厳しい論調だった新聞各社がこぞって関東軍擁護に回る。これ以降、新聞は軍部の行動をバックアップする報道一色になって行く。世論もまたマスコミに煽られ好戦的になって行く。「昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが私の思いであります」と、半藤一利氏は「昭和史」の中で述べ、マスコミの報道が決定的役割を果たしたことを指摘している。
 「国民は大本営発表に騙されていました」「新聞や雑誌は言論弾圧で何も書けませんでした」と不十分な自己反省から出発した日本のマスコミ。
 今回、従軍慰安婦問題での朝日新聞の吉田証言の記事取り消しと、池上彰さんのコラム掲載拒否など、一連の対応ぶりを見て、体質の危うさを感じる読者が多いのではないだろうか。
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朝ドラ

 NHKの朝ドラ「花子とアン」の視聴率が好調だという。花子の友人、柳原白蓮を描いた林真理子の「白蓮れんれん」も20年も前に出版された本にもかかわらず書店で良く売れているようだ。実は、私の居住する地区はドラマで仲間由紀恵が演じる花子の友人柳原白蓮と縁があって、朝ドラが地域の人々の茶飲み話の話題にのぼっている。と言うのも昭和27年にこの村に建てられた戦没者記念碑に白蓮の和歌が刻まれていることが人づてに評判になっているからだ。流麗な白蓮の筆で「かけまくも かしこき斎庭 神ながら 恋しき人の おもかげに立つ」と戦没者への思いが込められた碑文だ。みずからも、早大から学徒出陣した愛児を終戦の4日前に失った白蓮は戦後「国際悲母の会」を結成、非戦運動に取り組んでいた。記念碑の除幕式に当地区を訪れ記念講演を行い、、遺族や村民に感銘を与えたという。
 では、なぜ当時の村の為政者は戦没者の記念碑に白蓮の歌を刻もうとしたのだろうか、なぜ当時の村長が東京の白蓮の自宅を訪ね依頼をしたのだろうか、白蓮もその依頼を受け、当時は相当の時間を要した上田まで、わざわざ来訪してくれたのだろうか、疑問は尽きない。いろいろ調べたり、当時の記憶のある人達に聞いてみたりしたのだが、はっきりした回答は得られていない。ただ、この村(神川村、現上田市)は、かの山本鼎画伯が自由画運動を始めた発祥の地で、その後も中村直人をはじめ多くの優れた芸術家を輩出している。農民美術運動のリーダーも数多く生まれている。また哲学の西田幾多郎や土田杏村を招き自由大学を設立、運営した際も、この村の青年達が中心的役割を担っている。そうした運動を展開し担った人々、あるいは青年時代に影響を受けた人々が戦後の村政の中心に居た。この人々が青年時代、白蓮の歌集を読み、戦後悲母の会で活躍する彼女に白羽の矢を立てたのでは、と想像するばかりである。
 白蓮の活躍した時代、自由画、自由大学の時代から100年が過ぎようとしている。丁度、サラエボの銃声から第1次大戦起こった時期に重なる。この大正デモクラシーと言われた時代からわずか20年で日本は破局の道へと進む。ドイツのワイマール共和国も崩壊する。白蓮も村岡花子も、そして自由画運動や自由大学を担った青年達も時代の波に飲み込まれて行く。井上寿一氏は、格差の拡大、長期の経済停滞、政党政治システムの模索など、当時と今の類似点を指摘する。第1次世界大戦とその後の時期に「戦争とファシズム」の種子が蒔かれたとも指摘する(第1次世界大戦と日本)。
 先人たちに思いを馳せながら「花子とアン」を楽しみに見る。日清・日露戦争と第2次大戦の間の大正時代に興味と関心を深めながら。
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友人たちの自家菜園

 私たちは、今もって高校時代の同期会を月に一度開いている。あの60年安保の時の昭和35年卒業組である。96年50代の半ば頃から始めたから通算回数は200回を超えた。懐旧談や時局の政治や経済、社会問題などを話題にしながらの気楽な飲み会である。70才を過ぎた今の常連メンバーは、自営業の者も居るが、大学時代から県外で過ごし定年で故郷へ戻った者、地元の企業や教職、公務員などを勤め上げ定年を迎えた者、など様々である。一線を退いた後、自治会役員や社会活動など地域活動の世話役なども廻ってきたが、どうやらそれも勤め上げた者が大半である。数年前までは会合中に携帯電話が鳴って出入りする者が結構居たが、それも最近はほとんどなく世間との関わりが薄くなったようだ。面白いことにほとんど全員が自家菜園をやって、トマトやナス、きゅうりなどを楽しみながら作っている。中には、栽培技術に年々磨きをかけてブロッコリーやアスパラ、にんにくなど多品種の栽培を楽しんで居る者もいる。皆、採算は度外視した野菜作りである。苗の購入や肥料や支柱など資材代などを計算すると、スーパーなどで野菜を買った方がかなり安く経済的であることは間違いない。それでも新鮮で無農薬で安全な野菜を食べられるなどと言いながら、定年後の自家菜園を楽しんでいる。夏の最盛期には一斉に収穫期を迎える。家族だけではとても消化し切れない量の野菜が採れる。仕方なし近所などに配って食べてもらうが、近所でも大抵の家では自家菜園をやっていて「ご馳走様」などと言ってくれるが、かえって迷惑ではないか、と気を遣いながら配る。最後は、自分の畑で廃棄処分する量が結構多いらしい。こうした仲間の会だから当然、野菜作りのノウハウなどが話題となる。これから自家菜園の本格的シーズンを迎える。しばらくは例会の話題の中心の一つになることは確実だ。とりあえず、集団的自衛権やTPPなど政治談議の甲論乙駁に加え、施肥や病害虫防除など、かなり高度な栽培論議が続きそうだ。
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敢えて隙を見せる愚

 中韓両国の対日批判がエスカレートしている。尖閣や竹島の領有権をめぐり、あるいは靖国や従軍慰安婦問題など歴史認識をめぐり、執拗な日本攻撃が繰り返されている。冷静に丁寧な説明を心がけるとともに、毅然とした姿勢を貫くべきことは言うまでもない。中間両国はアジアの覇権や新秩序の形成を目指し、戦略的に日本批判を強めているとされる。だからこそ、こうした問題についての発言には細心の注意が必要だ。ところが不用意で軽率な発言が続いている。
 尖閣諸島を買う、として中国との領土問題を引き起こした東京都知事の発言、慰安婦についての大阪市長の不用意な発言、NHK会長と経営委員の従軍慰安婦や南京事件に関する発言、麻生財務大臣のナチスを例にあげての憲法改正論への言及、靖国参拝で米国を批判した衛藤首相補佐官、同じく本田内閣官房参与発言、等々不用意な発言が相次いだ。恐らく、言わんとする発言の真意が正しく報道されなかったものも多いだろうと思われる。
 だが中韓両国の姿勢を見ると、こうした発言は、国内向けは勿論、国際世論に訴える絶好の攻撃材料になる。本人が正論だと思っても海外ジャーナリズムは興味本位に報道する。今は、領土問題や歴史認識問題が感情的に強調され冷静な議論が出来る状況ではないように思える。領土問題や歴史認識問題をめぐり中韓両国には内政上の理由が大きくありそうに見えるからである。どうやら、冷静に論理で反論を試みても徒労に終わりそうな両国の雰囲気を感じる。こうした時期での不用意な発言は中韓のみならず対米関係まで悪化させかねない状況だ。周囲の状況の分析や判断をせずに、自分の考えだけを述べて満足するのは国益をないがしろにする行為と言えるのではないだろうか。
 政治にとって、言語はもっとも大事なものである、ことを忘れないで欲しいものである。

 こんなことを思いめぐらしていたら森喜朗元総理がフイギュアスケートの浅田真央選手を評して「あの子、大事な時には必ず転ぶんだ」と発言したことが報じられた。"やれやれ"である。
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凡人の感想

 「総理経験者が今さら何で都知事選に?」「原発に危機感を持つ気持ちは分かるけれども、どうも理解出来ない」「奇人・変人の本領発揮だね」などと訝る意見が交錯し、巷の話題になっている。もっともこうした不可解とも思える行動は、現役時代から細川・小泉お二人の持ち味だったような気がする。細川さんの突然の総理辞任(94年)、また突然の議員辞職(98年)。小泉さんの「自民党をぶっ壊す」発言、郵政民営化法案が自民党内の反乱によって参議院で否決されるや衆議院を解散した手法(05年)などを思い起こす。その都度、凡人は戸惑うばかりであった。
 言うまでもなく東京都知事には、原発立地県の知事のように再稼動の判断に影響を及ぼす直接の権限はない。原発政策決定の権限が、あたかも都知事にあるような発言は理解し難いものがある。だが、お二人には深謀遠慮があって、全く違った観点から政治へのアプローチを考えているのではないか、と想像したりする。例えば、自民党一党優位体制と野党の存在感の著しい低下という政治の現状に危機感を持ち、東京から政党政治を突き動す契機を創ろうとするなら、大いに意義のあることかも知れない。
 今回もまた凡人は、お二人の行動にあれこれ想像をめぐらすばかりである。
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ナショナリズムへの不安

 安倍首相が靖国神社を参拝した。もともと第1次安倍政権で靖国に参拝できなかったことに「痛恨の極み」と述べていたことから、強い個人的念願を果したと思われる。だが想定どおり中韓両国が強く反発したのみならず、同盟国アメリカをも「失望」させてしまった。戦没者をどう追悼するかについて、他国から干渉されるべきものではない、とする主張もある。また最近の中韓両国の歴史認識問題を外交に執拗に絡めるやり方は、異常とも言える面があるのも事実だ。
 それでも戦没者を悼む場所として靖国が適当でふさわしいか、という問題は存在する。神社側が、東京裁判で「A級戦犯」とされた14人を昭和殉難者として1978年になって合祀したことが発端である。昭和天皇は不快感を持ったとされ、75年以降、天皇陛下の参拝は実現していない。また勝者の断罪だとして、東京裁判を否定する史観を主張する人々が存在するのも事実だ。だが、すべての人が戦没者の冥福と平和を心から祈念する場所として適切かどうか。福田元官房長官の私的諮問機関が提起した無宗教の国立追悼施設の建立、野中広務元官房長官や古賀誠日本遺族会会長が提起したA級戦犯の分祀論などを真剣に検討すべきではないか。
 折角、アベノミクスが市場に好感を持たれデフレ脱却に期待が持たれている今日、国論を2分する行為はプラスに作用はしないことは明らかだ。それよりも懸念されるのはナショナリズムの高揚だ。日本国民は近年の中韓両国の領土問題など反日の動きに大きな不満や怒りを抱いている。中韓両国で反日の動きがさらに加速し、日本も反応するというナショナリズムの連鎖は危険だ。高い支持率を維持し、景気回復など成果を上げつつある安倍政権に一抹の不安を感じるのは、愛国心を過度に強調する政治姿勢だ。
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1票格差判決

 11月20日最高裁は、選挙無効を求めた訴えに対し、投票価値の平等に反する違憲状態だったとしながらも、選挙無効の請求は退ける判決を下した。続いて今年6月の参院選の選挙無効訴訟の判決が全国の高裁で順次言い渡される。国政選挙の度に繰り返される違憲訴訟は慣例化した感さえする。その都度、国会の怠慢が指摘されるが、各党は国民受けを意識して定数削減と絡めて議論するため、さっぱり議論が収斂しない状態が続いてきた。衆議院の場合、一人別枠方式を止め、選挙区画定審議会設置法のとおり10年毎の国勢調査に基づき自動的に修正することで何の問題もないと思われる。だが0増5減を決める際に、一人別枠方式を法律文からは削除しながら、選挙区を規定する公職選挙法の別表で別枠方式を維持したことから、将来にまた禍根を残した。次回総選挙では2倍超の選挙区がいくつか発生し、またまた選挙無効の訴訟が起こることは明らかだ。公選法の別表を国勢調査の度に人口比に基づき自動改正することで解決する問題だと思われる。
 判決後の各党や識者の反応は様々だが、憲法14条の法の下の平等に根拠を求める訴訟は果たして適切で合理的なものかどうか。もし1票の価値の平等を徹底的に追求するなら比例選を選択せざるを得ない。現に原告団の中には全国一区の比例制にすべきと主張する弁護士も数多く居る。しかし比例制を採用している国々では多党化し政権の不安定が続く。選挙制度は統治の仕組みに関わる問題で、安定した政権運営を期待する制度の設計が求められるのは当然だ。1票の価値の平等の視点のみで考察されるべきではない。
 また1票格差是正を進めると、都市部の議員だけが増え、地方の声が国政に反映されない、したがって面積、人口密度、住民構成、交通事情などを考慮すべき、とする意見も強くある。だが、こうした条件を考慮して1票価値の平等と調和する制度設計は至難と思われる。衆院の場合は人口格差2倍以内を基本に考慮されるべと思われる。
 また各党の判決後の談話では定数削減と絡めて進めるべきとの指摘が多い。日本の議員定数は諸外国と比べて決して多くはない。1票価値の平等とは切り離して議論すべき課題だ。参議院を地方代表性を考慮した機能にするなど統治形態のあり方を含めて検討すべきで、やはり第9次の選挙制度審議会を設置して議論を深めるべきではないだろうか。
 
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立ち読み

 年に1度か2度、溜まった資料や本の整理をすることがある。雑然としたいくつかの本棚の奥に、学生時代か若い頃購入した思想史や農業経済の全集などがほこりを被って大きな面積を占めている。大概はかじっただけで跳ね返された書物だ。処分しようかと思ったりするが、若い頃の挑戦した思い出を無くすような気がしてそのままにしてある。能力や読書力もないのに、よくもまあ購入したものだ、などと思っている。転勤や自宅の増改築の折などに、相当思い切って処分したはずなのに、捨て切れなかった本は愛着のあるものばかりだが、さりとて再挑戦する意欲も起こってこない。年齢を重ねるにつれ様々な衰えを感じるようになっているが、体力や思考力に加え、根気やねばりが無くなったのを強く自覚するようになっている。特に、書いたり読んだりする根気の衰えは著しい。生来の怠け者に加えての現象だから手に負えない。読書を始めても、パソコンに向かって文章を書いても根気が続かず、1時間位で小休止が必要になる。だから分厚な書物は、どうしても読みたいものか小説以外は最初から遠避けるようになる。週に何回か本屋に行くが、買い求めるのはほとんど新書か文庫本だ。200~500ページの新書や文庫は丁度良い分量だ。このぐらいなら途中で投げることもなく読みきれる。本棚は次第に新書のスペースが大きくなった。
 店頭には、新書の類だけでも岩波新書をはじめ多くの出版社のものが溢れている。中には、どうも?と首を傾げるような新書の氾濫も目立つ。派手なタイトルと帯であきらかに印税稼ぎと思われるようなもの、ライターに任せて記述したと思われる政治家や経営者などのもの、無責任と思われる経済学や社会学説をしたり顔に語る使い捨て新書、等々が店頭に並ぶ。最近はどんな本でも書店に行かずにネットで気軽に購入出来るし、少し古くなった本などは格安に買える。だが、やはり本屋で手に取ってパラパラとページをめくり立ち読みをし、目次や巻頭の文書やあとがきを読むことで作者の意図や思いを探るのは楽しみだ。
 近頃は結構時間の余裕があるので、妻の買い物には出来るだけ付き合って外出の機会を増やすようにしている。買い物をする大型店にはどこもテナントの一角に書店がある。専門書以外は結構品揃えも豊富だ。妻が食料品や身の回り品などの買い物を楽しんでいる間、書店で立ち読みをしながら過ごす時間は、衰えた私の、少しだけ残っている知的欲求を擽ってくれる。妻の長い買い物時間のお蔭である。
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